二ツ井町について
◆秋田県の北部に位置し、町の北端は世界自然遺産「白神山地」と接しています。
◆国定公園十和田湖と男鹿半島のほぼ中間地点にあります。
◆町面積の約8割が山林、北に白神山地に連なるブナ原生林、南には秋田県を代表する天然秋田杉美林が広がります。
◆町の中心部に明治天皇ゆかりのきみまち阪県立自然公園があり、県内屈指の景勝地として多くの観光客が訪れます。
◆きみまち阪の命名エピソードにちなみ「きみまち全国恋文コンテスト」を開催。(H6~H16)
入選作品集「日本一心のこもった恋文」はベストセラーに。
◆青梅報知マラソン(現・青梅マラソン)で「あきたこまちのおにぎりサービス」を長年実施。
その縁で、全国規模の「きみまち二ツ井マラソン」を開催。
地区ごとの紹介
二ツ井町の西部に位置し、能代地域と接する富根地区。国道沿いに水田が広がり、米代川に放牧牛の姿が見られるこの地区からは、白神山地が良く見えます。
この地区は、元々飛根と羽立の2部落からなっていますが、明治9年(1876)に戸長制が敷かれ飛根村になり、さらに明治22年、町村制の実施に際して駒形村と合併し、村名も富根村に改めています。昭和30年(1955)の町村合併で、二ツ井町、種梅村、荷上場村と合併して今日に至っています。
【歩く】
・富根三十三観音・烏野台地・雲根清水・茂谷山
町の中心部である二ツ井地区。ここの歴史は、永禄2年(1559)の大禿村開発からはじまりますが、田畑が開け、本格的な集落が形成されていったのは、梅津政景による岩堰用水が出来てからのようです。
大禿村は後に比井野村と改名、明治9年(1876)に薄井村と合併し、両村の井の字をとって二ツ井村としました。明治35年に町制を施行し二ツ井町となり、昭和30年(1955)に荷上場村、富根村、種梅村の隣接3村と合併して新たな二ツ井町のスタートを切っています。
古い時代から市日(いちび)が開設され、商工業の中心地として賑わいましたが、戸数は周辺の村々と同じぐらいで、固定した店鋪等もごくわずかでした。明治34年に鉄道が開通し二ツ井駅が誕生してから、駅前に運送店、比井野地区に商店群、さらに旅館、料亭、医院等が開設されて今日の元となる町並みが形成されていきました。
近年、道路網の整備、公共施設等の移転や新設、量販店の進出等により、町並みも次第に変わりつつあります。
【見る】
・二ツ井伝承ホール・鎧神社・明治天皇行在所跡・出羽三山碑
【歩く】
・桜づつみ公園(米代川堤防)・高丘山・恋文スポットきみまち
昭和30年の町村合併までは荷上場村と称していました。
明治14年の秋田県史資料付録によれば、荷上場は慶長(1596~1615)の開村で、元々は矢坂(現藤里町)と一つの村であったものが、宝永(1704~1708)の頃に分離したと記録されています。
藩政時代、荷上場と小繋を結ぶ川船は「一里の渡し」と呼ばれ、羽州街道の最大の難所と言われました。また、米代川と藤琴川の合流点であるこの地は、古くから舟運の要所として栄え、荷上場の地名はその歴史に由来しています。安栄3年(1774)、地区内、藤琴川の対岸に加護山製錬所が誕生、大きな集落を形成しましたが、ここは周囲からは独立した区域でした。明治22年(1889)に隣接する二ツ井町と組合立役場を作り、昭和24年まで役場事務の共同処理を行っていた歴史があります。
小繋、麻生、下田平の3集落で構成される天神地区は、二ツ井の東端にあたり、北秋田市(旧合川町、旧鷹巣町)との境界に接しています。
この3集落は、町村合併以前は前山、今泉(共に旧鷹巣町、現在は北秋田市)などの集落とともに七座村を構成していました。七座村は、昭和30年4月1日の町村合併で一括して鷹巣町に合併になりましたが、この3集落は、同年10月1日付けの境界変更により二ツ井町に編入になったと言う稀な経歴を持っています。
二ツ井町への合併を希望していた集落の住民が、結束して粘り強い運動を展開していたというエピソードがあり、住民パワーの勝利といったところ。
「天神様と八郎太郎」の伝説が残る七座山と七座神社に象徴される天神地区。
神代の時代の神秘とロマンを漂わせる一方、大館能代空港に最も近い地区。
【見る】
・太平山の盃(石杯)・小繋時計台・渡し場・七座神社・天神貯木場跡地・下田平開墾碑
二ツ井地区と富根地区の間に位置する切石地区は、その名が示すとおり、かつて盛んに石材の切り出しが行われていた地で、現在もゼオライト鉱石の採石場があります。
阿部比羅夫が蝦夷征伐のために大水軍を率いて東北に進軍してきた658年、米代川沿いの小賊を平定しつつわが地方も通過していますが、その時、切石の酋長「シリベシ」は頑強に抵抗し、遂に破れて蝦夷地に逃げ落ちたと伝えられています。
藩政時代、切石村は羽州街道の通り道で、米代川対岸に続く街道へ船で人を運ぶ「切石の渡し」がありましたが、荷上場~小繋間の「一里の渡し」と共に、羽州街道の難所と言われました。
明治22年、切石村は仁鮒村、小掛村、田代村、桧山町の濁川25戸などと合併して響村に、さらに昭和30年の町村合併を経て今日に至ります。苅又石は、昭和33年に能代市から境界変更によって二ツ井町に編入されましたが、かつては山を越えた檜山との交流が盛んでした。
【見る】
・お舟様・兜神社・塩の井・埋もれ木発掘現場・明治天皇御小休記念碑・竜毛沢の遺跡
【遊ぶ】
・桜山公園
仁鮒地区は、米代川を挟んで二ツ井地区の南側に位置します。
明治22年に切石村、仁鮒村、田代村、濁川が合併して響村となり、仁鮒には響村役場が置かれていました。響村は昭和30年の町村合併まで続き、現在でもこれら集落の総称として「響地区」と言う呼び方をします。
仁鮒の地名は、阿部比羅夫の蝦夷征伐(658)の頃のこの地の酋長の名前「ニボナ」または「ニホナ」に由来すると言う説と、ここは米代川舟運の要所で、荷と舟で「ニフネ」と呼ばれ、それがニブナになったと言う説があります。米代川に面した仁鮒は、小懸山など背後の豊富な森林資源を送りだし、各種物産を陸揚げ川港として栄えた事は間違いありません。
米代川沿いに、切石の石切り場の鎚の音、仁鮒、小掛の木材伐採の斧の音が毎日響き渡っていた事から響村と称したと言います。山と川で栄えた地区です。
【見る】
・銀杏山神社・隠居様・郷倉跡・筏流し発送の地・大平様・鬼鹿毛伝説と鬼神
・小掛鍾馗様・山神社と御不動様
【遊ぶ】
・鮎釣り・高鳥山展望台
町の南端部にあたり、能代市、三種町、北秋田郡上小阿仁村等と接しています。
秋田杉の里二ツ井町を代表する杉美林の宝庫であり、古くから山を守り、山の恵みによって栄えて来た地区です。
特に、明治から昭和30年代まで、国有林事業が隆盛を極めた時期には、森林鉄道が走り、山に関係する人々の往来で同地区は活気を呈しました。当時の賑わいは失われましたが、仁鮒水沢スギ希少個体群保護林に代表される天然秋田杉の宝庫である事に変わりありません。
田代は、阿仁からの移住者によって開かれた所と言われており、古くから山を越えた合川や上小阿仁との交流が盛んであったと言います。この地区にはお寺が無く、菩提寺が上小阿仁にある家が多い事からも、両地域のつながりの強さがわかります。
濁川は、元々は桧山町(現能代市)の一部でしたが、明治22年に響地区4集落と合併して響村となりました。田代川、濁川の渓流が合流する仙ノ台の景色は素晴らしいです。
【見る】
・仙ノ台の倉山・仁鮒水沢スギ希少個体群保護林(日本一高い天然秋田杉)・濁川八幡社
・伝説の湖、田代潟・田代の神社群
【歩く】
・濁川渓流・房住山・近隣町村への峠道